「自由」は、人間の権利ではない。
地球温暖化による生命の危機、ペストの再来「コロナ」、グローバル化の破綻、テロリストの跋扈、独裁政権の異常発生・・・・・・どこかおかしい。何かが狂ってる。そう思われている方が大勢いらっしゃると思います。そんな一人として、いろいろ考えてみると、原因のひとつとして、現代人類の教条である「自由」というものに、なにか欠陥があるのではないか。そういう思いにたどり着きました。
自由、それは現代人がもっとも大切にしている権利だと思います。自由主義国だけでなく、中国やベトナム、あの北朝鮮でさえ「国民は自由に発言し、行動している」と公には述べているのですから。
しかし私は、そこが違うのではないか、と考えました。
ヒトが誕生して以来、謳歌していたはずの「自由」。それが貴重なものだと気づいたのは、もちろんそれを失ってしまったからです。封建時代、中央集権時代、あるいは帝国主義の時代、人類は権力者によって束縛され、あるいは奴隷としてこき使われ、思想も行動も踏みにじられてきました。「自由」をふたたび手にしたのは、18世紀後半の市民革命以降のことだといえるでしょう。
そして、そのとき、人びとが勝ち得た「自由」、すなわち永らく失っていてようやく取り戻したのは、あくまで「束縛からの解放」です。権力者や他人の意向に縛られずに、自己の考えや思いのとおりに話せること、行動できることです。したがって「一人ひとりが何をしたっていい」という放埓では決してありません。
とすると、「自由主義」が何より大切にしなければいけないのは、「だれをも束縛してはならない」ということです。先ほど現代人が大切にしている「権利」と申しましたが、これは権利ではなく、「義務」なのです。あなたが「自分の自由」を主張する前に、あなたは「他の人間を束縛してはならない」、「その自由を奪ってはならない」のです。
昨今、高名なジャック・アタリ氏が「利他主義」の必要を唱えました。野中郁次郎らも著書で「アダム・スミスは、自由主義経済には他者に対する共感が前提となる。その延長に利他主義がある」と述べられています。
ともすれば「(個人の義務としての)束縛からの解放」は、自分自身の自由への制限につながりかねないものですが、それを他者への共感、他者を利することの価値につなげて考えてみると、現代社会がかかえる多くの問題が解決に向かうのではないか。私はそう考えます。
人類がもっとも大切にしている「自由」、それを本来の意味に読み換える。そうすることで、人類は本来進むべき、明るい未来への道にもどることができるのではないでしょうか。