Chat GPTに論文をチェックさせたら?

Chat GPTなど対話型AIの利用方法について、議論がかまびすしくなっている。いわくフェイク情報が真実としてまかり通る。学生がChat GPTの書いたものを丸写しする・・・・・・。

可もなく不可もない当たり前の文章をつくってもらうぶんには、とくに問題はないだろうが、それによって重大な判断を下したり、書いた(丸写しした)人物を評価したりするには、少々心配である。

そこで思ったのだが、書かれた文章を受け取る側(教授や先生、政治家やビジネスマン)もChat GPTを使って検証してみてはどうだろう。

大学の論文などで学生に使わせる際は、「書かれた論文がChat GPTないし他の対話型AIで提示された文章とどの程度合致しているか?」と、Chat GPT自身に問い合わせる。客観性を担保するために、他のAIに聞いてみてもいいかもしれない。

そうすると丸写しだったら「100%」という答えが返ってくるだろうし、学生のほうも考えるだろうから、「50%以上はアウト」など基準を設けてもいい。

いちいち提出された論文を入力しなくても、「○○大学の〇〇学講義提出論文について」とか、限定する条件さえつければ勝手に調べてきてくれるだろう。

日本政府も活用するとのたまっているが、これも回答があがってきたら、「この情報に関する反論はなにか」とか、「この情報の不確定要素はなにか」など、AI自身に考えさせたらいいのではないか。こういうケースでは、複数の対話型AIが出てきていることが信頼性を高めるうえで、より効果的といえそうだ。

AIの時代、新しい技術に関しては、使う側も新しい利用の方法、つまり間違いを起こさせない方法を開発することが必要なのかもしれない。

ウクライナ危機を解決するためには

原点に立ち返ってみよう

もう何年も続いているように感じるが、ロシアの侵攻が始まったのはわずか8か月前。その時に、プーチン氏は「ウクライナNATO加盟を思いとどまらせる」ために始めたと明言している。NATOの仮想敵国はロシア一国だ。欧米のみならず、すぐ隣の国まで加盟して大砲を構えられるのはもちろん勘弁してほしいだろう。

本来ならそこで自ら鎧を脱ぎ、話し合いを申し入れるべきだったが、プーチン氏はウクライナ国民の対ロ感情を読み違えて侵攻してしまった。

長い年月ロシアに無理難題を押し付けられてきたウクライナにしてみればたまったもんじゃない。以前から裏でオモテで頼りにしていた米国に泣きつくことになる。

いっぽう米国およびNATOは「とりあえず停戦させればいいだろう」くらいの読みで兵器を供与した。まさかこんなに長引くとは思わないから、ハイマースみたいな強力な武器ではなく、最初は一台の戦車をピンポイントで撃つジャベリンのような、いわば無難な兵器を供与していた。

 

意地と意地とぶつかり合い

米ロともに予想外だったのは、ウクライナの反露感情。二度と支配下に置かれたくないという強烈な思いは、ロシア軍を食い止め、むしろ押し返す。兵士も一般市民の多くも、リーダーたるゼレンスキー氏の決意に賛同した。

そのため、ロシアもやめるにやめられす、米国・NATOも手を引く機会を逸してしまった。だらだらずるずる、いわば成り行きで止められないのがこの紛争である。

 

根本原因はNATO

当初から恐怖政治のなかでデモが行われ、今回の動員令で多くのロシア国民が逃げ出した。いくらプーチンが「大国の再建を」と思っても(本人も否定しているらしいが)、ロシアという国家がそれを目指しているとは思えない。プーチンが国民生活を改善してこられたのも、おそらく原油の輸出などのおかげ、グローバル化した経済のたまものだろう。それを二の次にして侵攻を図ったのは、よほどNATOが怖いに違いない。

 

NATOはほんとうに必要か

これはいろいろと意見を言う人がいるのでいちがいに断ずることはできないのかもしれないが、そもそも仮想敵国がロシア一国であり、そのロシアがその存在を恐れているなら、交渉の余地は最初からあったのではないか。

NATOが拡大してきたのは、冷戦およびその終結後もロシアが軍事力を保持し、いつまた刃を向けてくるかわからないと考えてきたからだろう。

しかしその一方、ロシアが軍事力を強化してきたのもNATO加盟国が増え、その兵器も徐々に膨大なものになってきたからだと言える。

もしそうであるなら、西側が「NATOは解体する。だからロシアも軍事力を廃棄せよ」と交渉に持ちこめば、時期や規模などさまざまな懸案事項はあるが、基本的な方針として合意することができたのではないだろうか。

 

いまからでも遅くない

いやすでに多くの生命を失い、ウクライナのあらゆるインフラ、経済、文化その他を棄損してしまったのだから遅きに失していると言えよう。だが、一日も早くこの戦争を終わらせることは、ウクライナ国民のためだけでなく、第三次世界大戦を目の前にしている世界中の人類のためでもある。

いますぐに火種である「NATO」の解体をタイムテーブルに乗せ、ロシアの頑迷な武力主義を交渉で打ち破らなければならない。

 

だれがやるのか

すでに拳の降しどころを見失っているプーチン氏にもバイデン氏はじめNATO諸国にも自ら言い出すことはできまい。いまもプーチン氏とのパイプを保持するトルコのエルドアン氏や両陣営に等距離外交を展開するインドのモディ氏を軸に、ロシアに近い中国や米国に近い日本の首脳が汗をかく必要があるように思われる。

 

ここまで書いていたのだが、今月20日から中国の習近平主席がプーチン大統領と会談することになった。サウジとイランの仲をとりもった習氏がロシアとウクライナの仲をもとりもとうと考えているのかもしれない(プーチン氏のあとゼレンスキー氏とも会談する予定)。もちろん、それは米国から中国に世界の中心が動くということでもあるが、米国にその考えも、その力ももはやない。

もし中国が、本気でウクライナ戦争の解決に踏み出すのであれば(ほんとうにそうなのか、しっかり確認する必要があるが)、リーダーシップのかけらもなかった日本だが、NATO解体に向けて汗をかくことを前提に、習氏に協力することができるのではないだろうか。中国にすり寄るというわけではないが、西側のなかでは最もニュートラルな立場として、また平和を旨としてきた国家として、持てる知恵のすべてを結集して、紛争解決に協力してほしいと思う。

高齢者の力を活かした地域教育を

少子化の問題は、国家存続の危機と言ってもいいだろう。格差是正や男女の機会・待遇均等、保育・児童医療など、さまざまな課題をしらみつぶしにしていかなければなるまい。

その論点のひとつとして、また国家成長戦略(かならずしも成長が必要とも思わないが)としても、児童を中心とした教育体制の不全をなんとかする必要がある。きょうほこの点を考えてみたい。

 

まず教員不足が深刻である。ただでさえ多感で繊細な子どもたちの相手をする難しい仕事である。それに朝から夜中まで忙殺され、親たちの執拗なクレームにさらされ、また経験したことすらない部活動の顧問までやらされて休日勤務に駆り出される。しかも残業8時間までしかつかないというブラック就業。まずここから何とか改善しなければ、子どもたちは学校に行きたがらないし、親たちは子どもを産むことすらためらうし、日本の未来はまったくの暗闇である。

 

すぐれた教育こそが質の高い労働者を生み、その恩恵を受けるべく労働人口が増える。結果として、優秀な指導者も育ち、国家としての国際的な信用も高まる。現在国力を高めている国々を見ても、過去の盛衰を見ても、教育こそが国家の基礎となっていることは、与野党の議論もかまびすしいが、厳然たる事実だろうと思う。

 

私が最初に提案したいのは、教員の給与を格段に高くすることだ。たとえば市立の小学校の先生は仮に最低でも市長並み、都立大学の先生は都知事並みにする。高給を保証することで、優秀な人材を確保する。

 

もちろんそれでもいまの勤務状態では志望者も集まらない。そこで、教員の補助職を新たに設ける。まず候補として考えられるのは、リタイアした高齢者だ。少子高齢化が進む日本では高齢者が余っている。しかも元気なのに時間の使い道に困っている人たちも多い(かくいう私もその一人だが)。

そして彼らはいろんな経験を積んできている。ある人は、指導に悩む教師の相談役になってくれるだろう。事務の得意な人には、点数付けや出欠の確認などを任せてもいい。また昨今トラブル続出の部活動・クラブ活動には、それぞれの地域に元野球部、元美術部など、プロでなくても子どもたちの指導くらいなら十分任せられる人たちがごまんといる。

特技がない人には、教師の補助役として教室にいてもらうだけで、いじめや教師の問題行動の歯止めとなってもらうことも期待できる。また学校をめぐる犯罪が多発するなか、校庭の一角に近隣の高齢者たちのたまり場を設ければ、不審者の侵入なども防げるかもしれない。

 

そんなに簡単なことではないし、ここに記したことに多々問題があるだろうこともわかっているが、国家百年の計として議論を始めても、早すぎることはまったくあるまい。

歴史を反省できる、それこそが国の誇りだ

国家の尊厳とは何か。国民が真に愛せる国とは、どういう国だろう。

過去の罪を糊塗し、あやまちを国民の目から隠し、なかったことにしてしまう。そんな卑怯な国ではあるまい。

南京虐殺従軍慰安婦関東大震災後の朝鮮人虐殺なども日本史から抹殺しようと企み、それらがなかったことにして知らん顔を決め込む政治リーダーがいる。そうしたリーダーたちにいつの間にか教育のイニシアチブを握られ、洗脳されていく国民がいる。

自国民は都合よくだましおおせたとしても、不利益を被った他国、そして世界はけっしてだませない。そうやって、国家は国際的な信認を失っていくのだ。

 

ドイツは国際裁判を受けただけでなく、国内でも第二次大戦の罪をみずから償い、いまに至るまで反省の念を国民に植え付け続けている。シュタインマイヤー現大統領は「不名誉なのは責任を認めることではなく、否定することだ」2020.5.8と語り、ワイツゼッカー元大統領も「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」1985.5.8と発言している。人びとはいまだにアウシュビッツを謝罪し、ネオナチを排除し、国際社会との協調を旨としているのだ。

いっぽう日本は戦勝国主導の東京裁判を受け入れただけ。みずから総括することもなく、国家として原因や責任を追及することもなかった。あまつさえ、冒頭のような過去の罪を「なかったこと」してしまう。そんな国が、正しいと言えるのか。海外から尊敬を得られるのか。

 

韓国の尹大統領が、「頭さえ下げてくれれば徴用工問題を水に流す」と言ってくれている。もちろん過去の二国間の取り決めで金銭的にはそれなりの決着を見ているわけだが、韓国民の心には、きちんと謝罪する姿勢を見せない日本や、日本人の誠意に対する不信こそが深く根付いてしまっているのだ。尹氏の解決策も、まさにそれだけをクリアしたいというものだ(金銭的な補償は日本企業にとって痛くもかゆくもない程度だ)。

 

過ちをあらたむるに憚ることなかれ。歴史をきちんと振り返り、間違いは正々堂々と認め、謝るべきところはきちんと謝る。それこそが武士道、それこそが日本の誇りであり、日本人が国を愛するということではないのか。相手が「もういい」と言うまで、いやかりにそう言ったとしても、歴代の日本の指導者が謝り続けるくらいでちょうどいい。そう私は思う。

「接点接種」・・・老若がふれあう接点からワクチン接種を

緊急事態宣言が解除されることになった。解除される前から、渋谷など繁華街の人出は目に見えて増えており、一足先に解除された関西でも感染者は増加している。リバウンドはすでに始まっているという専門家もおり、年度末・年度初めに花見が重なるこの時期。しかも変異型が明らかに広まりつつあるなか、宣言解除、段階的緩和というステップをこのまま踏んでいけば、おそらく取返しがつかなくなるのではないだろうか。

とはいえ地方中心に経済はもはや瀕死の状態。なんとか再起動させたい為政者の思いもわかる。

そこでひとつ提案したいのが、若者と高齢者の棲み分けである。すでにアイデアレベルで提案されている方も内外にいらっしゃるが、それを都市圏でほんとうに実行してはどうだろう。

つまり若者は若者だけの集団にいるかぎり、感染しても重篤化する可能性はかなり低い(だから外出している)。そして高齢者も家に閉じこもっているかぎりは基本的に感染しない。棲み分けをすることによって、若者中心に経済をまわしていけるということにもなる。

考えなければならないのは、若者と高齢者の接点である。

たとえばオフィスでは若者は出社、高齢者はオンラインという棲み分けをする。飲食店も若者経営の店は若者だけを受け入れ、高齢者が経営する店は高齢者だけを迎える。

どうしても棲み分けができない場所・業種には、ようやく導入されたワクチンを活用する。限られた量しか入手できないのだから効率よく使うことが何より重要だ。たとえば介護施設では接点にあたる介護福祉士のみなさんから接種を始める。移動のすくない高齢入居者全員に接種するよりはるかに効果的ではないだろうか。高齢者のなかでも、学校などの教育施設で若者に教える指導者を優先すれば限定的な量で対応できる。

若者と高齢者が同居する家庭もあるが、1都3県や関西の都市部では数も限られるだろう。そうした家庭の高齢者は優先接種すればよい。

そうは言っても世の中そううまくはいかず、高齢者のなかに紛れ込もうとする若者はともかく、若者の施設にはいりこみたい高齢者は出てくるだろう。そうした人々が救急車で運ばれる例は後を絶たないだろうが、それでも現状よりは病床にも余裕が出てくるのではないか。

若者と高齢者の線引きはどうするかという問題については、重篤化した人びとの年齢から割り出すほかないだろう。たぶん50代半ばから60歳くらいか。

もちろん、それによって社会における若者と高齢者の分断が生じる危険性もないとは言えない。ただいずれにせよ、感染がおさまるまでの話だ。全国民のワクチン接種が見通せない中、このままずるずる自粛→我慢の限界→感染拡大→ふたたび自粛というサイクルを続けるよりはるかにましだと思うのだが、いかがだろうか。

「自由」は、人間の権利ではない。

地球温暖化による生命の危機、ペストの再来「コロナ」、グローバル化の破綻、テロリストの跋扈、独裁政権の異常発生・・・・・・どこかおかしい。何かが狂ってる。そう思われている方が大勢いらっしゃると思います。そんな一人として、いろいろ考えてみると、原因のひとつとして、現代人類の教条である「自由」というものに、なにか欠陥があるのではないか。そういう思いにたどり着きました。

自由、それは現代人がもっとも大切にしている権利だと思います。自由主義国だけでなく、中国やベトナム、あの北朝鮮でさえ「国民は自由に発言し、行動している」と公には述べているのですから。

しかし私は、そこが違うのではないか、と考えました。

ヒトが誕生して以来、謳歌していたはずの「自由」。それが貴重なものだと気づいたのは、もちろんそれを失ってしまったからです。封建時代、中央集権時代、あるいは帝国主義の時代、人類は権力者によって束縛され、あるいは奴隷としてこき使われ、思想も行動も踏みにじられてきました。「自由」をふたたび手にしたのは、18世紀後半の市民革命以降のことだといえるでしょう。

そして、そのとき、人びとが勝ち得た「自由」、すなわち永らく失っていてようやく取り戻したのは、あくまで「束縛からの解放」です。権力者や他人の意向に縛られずに、自己の考えや思いのとおりに話せること、行動できることです。したがって「一人ひとりが何をしたっていい」という放埓では決してありません。

とすると、「自由主義」が何より大切にしなければいけないのは、「だれをも束縛してはならない」ということです。先ほど現代人が大切にしている「権利」と申しましたが、これは権利ではなく、「義務」なのです。あなたが「自分の自由」を主張する前に、あなたは「他の人間を束縛してはならない」、「その自由を奪ってはならない」のです。

昨今、高名なジャック・アタリ氏が「利他主義」の必要を唱えました。野中郁次郎らも著書で「アダム・スミスは、自由主義経済には他者に対する共感が前提となる。その延長に利他主義がある」と述べられています。

ともすれば「(個人の義務としての)束縛からの解放」は、自分自身の自由への制限につながりかねないものですが、それを他者への共感、他者を利することの価値につなげて考えてみると、現代社会がかかえる多くの問題が解決に向かうのではないか。私はそう考えます。

人類がもっとも大切にしている「自由」、それを本来の意味に読み換える。そうすることで、人類は本来進むべき、明るい未来への道にもどることができるのではないでしょうか。